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大正の頃、堺市の日本航空輸送研究所は、海軍に働きかけて援助をとりつけ、水上機による瀬戸内海運航を計画します。堺市の海浜に基地を設け、海軍から中古水上機の払い下げと現役操縦者の割愛を受けて、まず大正11年11月堺~徳島間週一往復と、堺~高松間週三往復の定期運航(主として貸物)を開始した。
次いで同12年末から非公式郵便輸送を、昭和3年からは本格的旅客輸送を始めます。この間路線の延長に努力し、高松線を大正13年に今治へ、14年に松山へ、15年に大分へ、昭和2年には別府まで延ばした。こうして県内にも今治と松山に水上飛行場ができたわけで、旅客扱いが始まった昭和4年(1929)における松山の発着場は、当初は温泉郡三津浜町広町(現松山市三津3丁目)の海岸でしたが、同年8月から梅津寺の伊予鉄道埋め立て地北隅に事務所と格納庫が完成し、移転しました。
梅津寺の飛行場は、当時松山周辺で唯一の民間飛行場として親しまれました。昭和9年当時の広告には大阪、高松、松山間を往復一便(昭和10年に別府まで延長)、松山~大阪間の運賃が18円であると記載され、貨物輸送、郵便物の取扱いが行われていることがわかります。使用機は当初3人乗りないし6人乗りであったとされていますが、昭和11年には19人乗りのサザンプトン艇「きりん」号が就航し、エアガールの空中サービスが話題になったと伝えられています。
なお、戦後の昭和34年(1959)10月、日東航空株式会社が新居浜市黒島と大阪堺を結ぶ航空路を開き、水陸両用アッター機(定員11名)を1週3便就航させました。のちグラマンマラード機にかわり、黒島~大阪空港間毎日二便制となりますが、40年9月末をもって休止され現在に至っています。
ちなみに「うちのおじいちゃんとおばあちゃんは、親たちが決めたお見合い相手が嫌で、梅津寺から飛行機に乗って大阪へ駆け落ちしたんよ」と本人の葬式の日に伯母から聞いて、みんなが「え〜っ!」と声を上げました。ハイカラなお二人だったようです。